あぁ~ん、天国にいて、何でも願いがかなって幸せなはずなのに
ガーン「私は何をブーたれているのかしら?」

ここが、トリックなんですね。はてなマーク
私たちの思考は天国では瞬時に現実化します。
逆に言えば、思考にないものしか、現実化できないのです。

心の成長がなければ、それ以上のイマジネーションが湧かない。
想像を超える現実化ができないのって、
そろそろ厳しくなってはいないですか?

天国には規制や制限などは全くないので、やりたい放題です。

では、この世で、様々な価値観を持って、あの世に行くとします。

この世で、お金に価値観をおいて、
金儲けに必死の人生を送ってきた人だとしたら、
あの世に行って、お金は全く価値のないものと気づきます。
自分が追いかけてきたものが、全く無意味なものになって
しまって愕然とするでしょう。

ブランド好きの人も、ブランド品がいくらでも手に入り、
ブランド品の山に埋もれる事ができたとして…、
でも、そのブランド品が誰でも望めば手に入るとしたら、
どんな空しい気持ちになるのでしょうか?

美食家が無限に美味しいものを食べ続けることができたとしても、
いずれは飽き飽きませんか?

「こんなことをずぅ~っとやっていて、僕ちんいいのかな、あれ~(・3・) 」
「こんなことは、もう続けられないよ。つまんない(´-ω-`)」

これが、自分の想像力の限界に気づきだした頃です。
あの世は、自分が望めるものしか反映されないのだと、
自分の浅はかさに落ち込んでしまいます。

ここまで来たら、天国とさよならする(o・・o)/~時が来ました。

こうやって、魂の成長へと旅立つわけです。

ここまでの過程は、とっても長い時間を費やすでしょう。
でも、この「自発的」に魂の成長を望むということが、
とっても尊いことです。

こうなると、天国というところは、
私たちにご褒美をくれて魂の骨休めをする場所とも言えますが、
実はこの世の価値感を見直したり、
欲しいモノが手に入ってしまったからこそ、
空しいという感情を感じさせてくれるところでもあります。

天国は、幸せな所というよりかは、
「自分を見つめる場所」となるかもしれませんね。

このシナリオを作ったのが神です。
なんと気の長い愛なのでしょうか。
私達が、自分の意志で魂の成長を願う、最善な方法をセッティングしてあったのです。

よく考えてみたら、天国も地獄も、
全く正反対のようで、本来の役目は同じ性質みたいな気がします。

ヽ〔゚Д゚〕丿凄い!ベルとしか言い様がない。

<続く>

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むかし物語はまだ続いておます。

天国ってどんなところよねん

ここからは想像力を働かせて付いてきてくだされ。

天国とは、それはそれは素晴らしいところなのだ。

この世にあったものが何でも存在している。
見た目が何もかもそっくりで、
山も海も川も樹木も花も、町並みや家も、人間も動物も鉱物も、
ちゃ~んと変わりなくそこにはあるんだ。

でも、この世のものとは、ちょっと違うところがあるのだよね~。

それは、これらのもの全てが、この世とは比較にならないほど美しいことだ。
この美しさを一度も見たことのない人間には、
表現できないし、じぇんじぇん伝えきれない。

私の友人で天国の音楽を聞いた人がいるが、
バイオリンとハープとパイプオルガンが、
バッハの音楽のように奏でられているとか。
その音の美しさは、表現しようがないと言っていた。

面白いことに、天国の音楽は、左耳耳だけしか聞こえなかったらしい。
他にもう一人天国の音楽を聞いた人も、
天国の音楽をその人とそっくりな表現で例えていた。
もちろん何故か、左耳しか聞こえてこなかったのは、興味深い。

さて、天国というところの天国話は、まだある。

自分が欲しいなと思ったモノは、瞬間に目の前に現れてくる。
肉体がないからテレポテーションも可能だし、
ゆっくり山登りがしたければ、歩くこともできるんだいグッド!
鳥のように空を飛ぶ事だって容易にできる。

なんといっても人間関係が楽チンよ。
だって、思考が瞬間に現実化するわけだから、
価値観の一緒の人ばかりが集まっているのは当然だよね。
こんなこと、この世の人間から見たら、文句なし天国の世界さ!

でもでも、こんなことを長~~~ぁく続けていると、
「思ったことがなんでも叶うって、そんな人生でいいんだっけ?」
って、魂が真剣に疑問に思う時が来るんです。

「これって自分が望んでいた通りの幸せだったかしら?」

そう言った疑問が感じられてくると、天国のはずの場所が、
一変して地獄に感じるのかもしれない。

「どうして、幸せのはずなのに不満なのよ~。何を私はブーたれているの?」

続く
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お~、ますます怪しい話に突入します。
那旺さん、頭がどうやらおかしくなったと心配される方は、
前にもお伝え致しましたが、
これを「むかし物語」として聞いてね。

それでは、「むかしむかしあるところに~~」

私たちが死んだあとの魂は、まずは「幽現界」というところへ行きます。
(「行くとして」と、考えてね)

だいたい神式だと50日、仏教では四十九日(しじゅうくにち)
と決まっているけど、
死んで間もない魂は、幽現界に留まって、
この世で生きてきたことにたいする、気持ちの整理をつける時間となるらしい。
「この世」とのお別れをする大切なセレモニーになる訳なのね。
「うんうん」(゚д゚)(。_。)

でも、死んだはずの魂が「この世」に対して執着していたり、
自分が死んだことを受け入れていなかったりすると、
浮遊霊とか自縛霊になって、成仏できないで留まってしまいます。

わたしの経歴もあまり普通ではなくて、
受け入れて頂けるかどうか微妙ですが、
10年前くらいに、ひょんないきさつから霊能者に付いて浄霊を
手伝っていたというか、若しくは側で見学していた様な時期もありました。

確かに除霊されたあとの人間の顔つきや、健康状態、考え方、
その後の運命は、度肝を抜くくらいいい方向に変化していきます。アップ

霊の話をしだすと、本題からまたまた外れそうなので、
ねんごろもよく思い出し時にまたお話しますね。

そして、自分の死を受け入れて、思い残すこと無く、
いよいよ「成仏へと参ります…」と、心の準備が整ってくれば、
幽界へ行けるようになります。

この幽界の中は、先日お話したように、
幼稚園から社会人まで、魂の階層がありますが、
その中にも地獄と思われるところから、
天国と思われるとこまで大きなの幅があるようです。

私たちが天国だと思っているところは、この幽界にありますが、
ここはあくまでも、魂の成長の通過地点であって、
ここからもっともっと、魂を磨いてから、
やっとこさっと、霊界へと言うところに進んでいきます。

あ~道のりは長いで~。(((( ;°Д°))))
あの世もやっぱり頂上はないのだ。

続く
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ミステリースクールで教えてもらったことなのですが、
あの世とこの世の時間には時間の速度が違うみたいで、
私たちが生きている「この世」での寿命は、せいぜい長くて100年です。
その100年に、匹敵するあの世の時間は1000年から3000年とも言われます。


(8月22日のブログから引用しています。)

あの世では、肉体がなく、心(魂・靈)そのものしかないので、
自分の考えていることが、テレパシーで相手に伝わります。
思考そのものが、ダイレクトに相手に伝わって行くわけです。
思考の現実化も早いそうな。
想念そのものが即現実化していくわけです。

そして、あの世にも階層があり、
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会人というように、
この世の世界と同じです。

しかし大きく違うのは、
その階層の区分けは、意識のレベルなので、
それは何をモノサシとしているかは微妙で、
これに近いことは、いろんな書物にも載っているみたいです。
(私はあまり本やネットは見ないので、今までの情報は書物とは違います)

で、例えば小学校の場合ですが、
この世の小学校とは違い、あの世の小学校は
いろんな種類の考えや環境の人がいません。
つまり、意識レベルの段階での小学校なので、
みんな同じような思考の人の集まりだから、
人との差が見えにくく、わかりにくい。

例えて言うと、白色の中に薄い白がいるみたいな、
ゼリーの中に、わらび餅が入っているみたいな、
クワガタの上にゴキブリとかげがのっているみたいな(ちと違うかしらん?)

とにかくわかりにくいのだ。
他人との差がわからないから、苦しみや悩み、葛藤がないので、
のんびり隠居しているような生活です。
その葛藤や比べるものが無い中で、魂の成長を見つけるのは、
結構大変なようですよ~。

すると、幸せに慣れて、幸せに疲れてくるのが本音のようです。

結論。
あの世とこの世の成長指数は違うのだ。

神様が人間にくださったギフトプレゼントは、選択の意思を持たせてくれたことです。

あの世でのんびりと成長を待つも、
この世で、小さい目標を持って超えるも、
ごっつう高い目標を目指して成長するのも、
途中、この世で生きているのが嫌になっちゃって、死を選ぶのも、
全部、自分の意志のみにて決められる自由を与えてくださった。
ハートダイヤクラブスペード
まさしく愛そのものです。

続く
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何をしたとかではなく、そこから何を得たかです。
失敗や後悔は誰でもある。
そこから、何を学んで、何を得たか、それこそが成長そのもの。

クオーレテラピーのお客様で、私の友人でもある
体操の金メダリスト五十嵐久人(お客様の声を見てね)さんが、
こんなことを言っていました。

「頂点だと思っていた金メダルをとった先には、何にもなかった」と。
彼は、頂点を目指して努力に努力を重ね、世界一になった。
でも、頂点に登って気がついたことは、頂点なんて何もなくて、
ずっとお山富士山は続いていることに気づいたそうだ。

それ以来彼は、今は、体操の金メダリストという立場である
環境のから離れて、
自分の存在を全く知らないアメリカの片田舎に5年間、留学に行ったらしい。

金メダリストなら、日本の大学で教授とか、体操を教える道が
通常なのかもしれないが、
彼は、ただ、自分のしたいことしか考えつかなかったと言っていた。

そんな生き方をずっと続けているからこそ、
今となっては、趣味がこうじてプロ級になったものがアレコレある。
とってもナチュラルなひとで、
五十嵐さんの物語は、いずれ聞いてもらいたいものだ。

いや、対談形式でお伝えするときも来るはずです。

「覚り」って私たちからそんなに遠いものでもなく、
気がつけば、そのエッセンスを自然に得て行動しているものだと、
彼のとんちんかんぶりを観ていると、安心できます。
そんな変な人です。
あちらからしたら、「お前様には言われたくないな」と
返ってくるでしょうが。にひひうへへ

続く
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